孔市良通信

民謡ふるさと紀行 vol.9「新潟県十日町市 新保高台寺節」

2015.07.01

1.はじめに
2015年8月中旬、夏の旅行に弁護士の友人たちと誘い合わせて、秋山郷に行くことになった。

秋山郷は、新潟県の津南町と長野県の栄村を流れる中津川沿いにあり、江戸時代、塩沢の人、鈴木牧之が紹介した秘境である。

新潟空港からレンタカーで、早川弁護士の運転で、まず十日町市を目指した。一日目は松之山温泉に泊まることにして、十日町市にある、新保広大寺を訪れることにした。

なぜ、新保広大寺かといえば、このお寺が発祥の地とされる口説(くどき)節(新保広大寺説)で有名な場所であり、一度は行ってみたいと思っていたからである。

場所は新潟県の南部、信濃川右岸に広がる村で、明治9年までは新保村であったが、明治33年に下条(げじょう)村となり、現在は新潟県十日町市下組新保となっている。

お昼前にこのお寺に到着したが、お寺の入口には、「民謡のふるさと、新保広大寺節発祥の地」という大きな石碑が建っている。

2.新保広大寺節がなぜ有名なのか
この「新保広大寺」について一番研究した人は、竹内勉さんで、民謡地図②「じょんからと越後瞽女(ごぜ)」の中に詳しい研究の結果が書かれている。これを参考にして、「新保広大寺」について少し書いてみることにする。

新保広大寺の伝説には、いろいろあるらしいが、その一つを紹介すると、「元禄(1688〜1704)の頃に、新保村の禅寺広大寺の和尚が、豆腐屋の娘と浮名を立てられ、唄になったのがきっかけで、流行り唄となって、天明4年(1784)の飢餓の時には、江戸近在の老幼姉女が、この唄を唄い踊りつつ、市中を乞食して歩いたところ、大流行を極めるに至った。

天明7年(1787)には、滑稽(こっけい)本の「新保広大寺不実録や、黄表紙の「新補幸大寺噺」などが次々に発行された。」というものである。

この説を裏付けるものとして、瞽女が唄って廻ったとされる歌詞に、次のようなものがある。

・新保広大寺がお市のチャンコなめた、なめたその口でお経読む。
・新保広大寺に産屋が出来た。お市案じな小僧にする。
・新保広大寺に虎の皮着せて、お市乗せては藪の中、千里走れとはそりゃ無理だ。

などの歌詞がある。

しかも、竹内勉さんが調査したところによれば、「どうも当時、広大寺と寺の反対派の上之島の連中との間で、信濃川の中州の土地争いが発生し、反対派が広大寺側を誹謗中傷するため、悪口唄を作った。そして自分たちだけが唄うのではなく、越後瞽女のような門付けをして、唄って廻らせ、唄を流行らせた」というのが、真相に近いらしい。

そして、新保広大寺節が誕生したのは、天明(1785)の末から寛政(1790)の初めの5年間ぐらいの間で、出版物にまで載るほど流行したのは、文化文政(1804〜30)頃ではないかと推測している。
この唄は、江戸時代の五大流行歌の一つだと言われており、なぜ、新潟の田舎のお寺の唄が全国的に流行したのか、不思議な気がする。

実際に、青森県では「じょんから節」、群馬県では「八木節」、秋田県では「飴売り唄」、富山県「五箇山古代神」、北海道「道南口説」など広大寺系統が広がっている。西では中国地方まで影響が及び、「因幡口説」、「ヤンレ節」、隠岐島「隠岐どっさり節」などが知られている。

3.おわりに
新保広大寺のまわりは一面の田んぼで、稲がほんのり黄色を帯びている。寺の内はし〜んとして静かであり、色っぽい坊さんの雰囲気は全くない。

新保広大寺節は、昭和59年1月に無形民俗芸能として市の文化財に指定され、保存会によって、唄と踊りが伝承されている。

平成12年11月には、新保広大寺節保存会設立40周年記念、全国新保広大寺大会が開催され、全国から多くの団体が参加して盛大だったらしい。

私達も唄と踊りを見たいと思ったが、時期的にそれも無理なことがわかり、今夜の宿泊地、松之山温泉に向かった。